『とある日常の、光景』
松戸の駅に電車が着き、電車を下りる。
ふと、視界の隅に車椅子が見えた。
駅員さんにおされて、ホームを行く車椅子の女の子。
ホームに落ちたら大変な事になるんだよな、と思ったら、なんだかとても気になってしまって、少し距離を置いて一緒に歩いてみた。
僕は、エスカレーターがついてる階段を昇ったところにある改札から出ないと駐輪所に行けないので、そこまで一緒に歩く。
少し、離れながら。
駅員さんがエスカレーターの昇降準備をするために、チェーンをかける。
自分は、その横の階段を昇ろうと、横にそれる。
大丈夫かな、と視界の隅で見ていたとき、反対の通路からエスカレーターを使おうと思っていたらしい、二人連れのおばちゃんが、エスカレーターが使えなくなっているのを知る。
その時、そのおばちゃんが言った。
「イヤぁ~!」
感嘆の言葉ではない。
それは、拒絶の言葉だ。
かすかに、笑いながら。
口元を隠しながら、となりの連れのおばちゃんに小声で「これはないわよねぇ」と言う。相変わらず、笑顔のまま。
エスカレーターが使えない、ということで。
見えていたはずなのに。車椅子の女の子。
歩けないことは、いけないことですか?
他人が当たり前に出来ることが出来ないのは、
いけないことですか?
女の子は、車椅子の上で、うつむいて、ただ、黙っていた。
誰とも視線を合わせることなく。
悲しい、と、思った。
黙ってうつむいていた、女の子の姿も。
「イヤぁ~!」と、言ってしまえるおばちゃんの心も。
「スイマセン」と、頭を下げた駅員さんも。
とても、悲しい。
悲しい、光景。
同情するつもりはない。
憐れむつもりもない。
ハンデを持って生きることが、どういうことか、僕は知っている。
多くの人にはないハンデを持つということは、そういうことだからだ。
同情されるのが、僕は嫌いだ。
高みからの視線で、憐れまれるのも、嫌いだ。
精一杯生きている他人を、精一杯生きている自分を、同情しようとも、憐れもうとも思わないし、同情して欲しいとも、憐れんで欲しいとも思わない。
そんな傲慢な人間には、なりたくないと思う。
ただ、悲しかった。
とても、悲しかった。
とても、深く。
立ち止まったまま、泣きそうになった。
涙はでなかったので、僕は泣いていない。
悲しいおばちゃんに何か言おうとして、何を言えばいいのかわからなくて、自分が何かを言うことで、今、生きているその女の子を傷つけることになってしまわないか不安になって、立ち止まったまま、駅員さんと女の子にチラチラと視線を向けるおばちゃん達を、眺めていた。
自分の横を、女の子と駅員さんが昇っていく。
それをただ、見ていた。
この世界には、殺人と自殺に匹敵するくらい、酷いモノがある。
それは、悪意なき、悪意。
それは、顔を上げ、必死に前を向こうとする意思や、自分自身に立ち向かおうとする勇気を、一瞬で削り取る。
芽生えた小さな芽を、簡単に踏み潰す。
それは、静かに、とても深く、心を抉る。
体の傷は、血が流れる。
心の傷は、目に見えない。
おどけた笑いを浮かべて拒絶の言葉を吐いた悲しいおばちゃんは、悲しいけど、幸せな人なのだと思う。
沢山のモノを持っている自分に、恵まれた環境に、当たり前の幸せに、慣れてしまっていて気づかない。
我知らず、誰かを傷つけているなんて、気づくこともない。
幸せなのは、とても嬉しいことだ。恵まれていることも、良いことだ。
でも、だからといって、無作為に他人を傷つけていいわけではない。
決して。
1年前の自分なら、きっと、こう書いたと思う。
『自分は、ただ見ていることしかできなかった』
それは、違うんだ。
自分は、見ていることができた。
無関心に通り過ぎるでもなく、悲しい光景から目をそむけることもなく、泣きそうな心の痛みから逃げるでもなく。
見届けることができた。
どうやら、僕はちゃんと僕の道を、歩んでこれたらしい。
あの光景と、あの悲しい気持ちと、あの無力感を。
僕は、絶対に忘れない。
ふと、視界の隅に車椅子が見えた。
駅員さんにおされて、ホームを行く車椅子の女の子。
ホームに落ちたら大変な事になるんだよな、と思ったら、なんだかとても気になってしまって、少し距離を置いて一緒に歩いてみた。
僕は、エスカレーターがついてる階段を昇ったところにある改札から出ないと駐輪所に行けないので、そこまで一緒に歩く。
少し、離れながら。
駅員さんがエスカレーターの昇降準備をするために、チェーンをかける。
自分は、その横の階段を昇ろうと、横にそれる。
大丈夫かな、と視界の隅で見ていたとき、反対の通路からエスカレーターを使おうと思っていたらしい、二人連れのおばちゃんが、エスカレーターが使えなくなっているのを知る。
その時、そのおばちゃんが言った。
「イヤぁ~!」
感嘆の言葉ではない。
それは、拒絶の言葉だ。
かすかに、笑いながら。
口元を隠しながら、となりの連れのおばちゃんに小声で「これはないわよねぇ」と言う。相変わらず、笑顔のまま。
エスカレーターが使えない、ということで。
見えていたはずなのに。車椅子の女の子。
歩けないことは、いけないことですか?
他人が当たり前に出来ることが出来ないのは、
いけないことですか?
女の子は、車椅子の上で、うつむいて、ただ、黙っていた。
誰とも視線を合わせることなく。
悲しい、と、思った。
黙ってうつむいていた、女の子の姿も。
「イヤぁ~!」と、言ってしまえるおばちゃんの心も。
「スイマセン」と、頭を下げた駅員さんも。
とても、悲しい。
悲しい、光景。
同情するつもりはない。
憐れむつもりもない。
ハンデを持って生きることが、どういうことか、僕は知っている。
多くの人にはないハンデを持つということは、そういうことだからだ。
同情されるのが、僕は嫌いだ。
高みからの視線で、憐れまれるのも、嫌いだ。
精一杯生きている他人を、精一杯生きている自分を、同情しようとも、憐れもうとも思わないし、同情して欲しいとも、憐れんで欲しいとも思わない。
そんな傲慢な人間には、なりたくないと思う。
ただ、悲しかった。
とても、悲しかった。
とても、深く。
立ち止まったまま、泣きそうになった。
涙はでなかったので、僕は泣いていない。
悲しいおばちゃんに何か言おうとして、何を言えばいいのかわからなくて、自分が何かを言うことで、今、生きているその女の子を傷つけることになってしまわないか不安になって、立ち止まったまま、駅員さんと女の子にチラチラと視線を向けるおばちゃん達を、眺めていた。
自分の横を、女の子と駅員さんが昇っていく。
それをただ、見ていた。
この世界には、殺人と自殺に匹敵するくらい、酷いモノがある。
それは、悪意なき、悪意。
それは、顔を上げ、必死に前を向こうとする意思や、自分自身に立ち向かおうとする勇気を、一瞬で削り取る。
芽生えた小さな芽を、簡単に踏み潰す。
それは、静かに、とても深く、心を抉る。
体の傷は、血が流れる。
心の傷は、目に見えない。
おどけた笑いを浮かべて拒絶の言葉を吐いた悲しいおばちゃんは、悲しいけど、幸せな人なのだと思う。
沢山のモノを持っている自分に、恵まれた環境に、当たり前の幸せに、慣れてしまっていて気づかない。
我知らず、誰かを傷つけているなんて、気づくこともない。
幸せなのは、とても嬉しいことだ。恵まれていることも、良いことだ。
でも、だからといって、無作為に他人を傷つけていいわけではない。
決して。
1年前の自分なら、きっと、こう書いたと思う。
『自分は、ただ見ていることしかできなかった』
それは、違うんだ。
自分は、見ていることができた。
無関心に通り過ぎるでもなく、悲しい光景から目をそむけることもなく、泣きそうな心の痛みから逃げるでもなく。
見届けることができた。
どうやら、僕はちゃんと僕の道を、歩んでこれたらしい。
あの光景と、あの悲しい気持ちと、あの無力感を。
僕は、絶対に忘れない。